2019.9.12

111-2
  2019年第7回「山田湾まるごとスクール」
第2日目
    -震災8年目の復興の姿と、三陸の「食」の歴史をたどる旅-

 Ⅱ 第1日目 9月7日(土)AM

 第二日目の朝は、まず大沢漁港へ
 戦後すぐのころ、捕鯨基地だった遺構が地震で沈下した海中に残っていて、澄んだ水中に見ることができました。

 山田湾の捕鯨は、18世紀半ば、大浦では、湾内に回遊してきたイルカを、網や突き棒で捕獲していました。
 戦争中、大沢には、海軍の飛行艇基地があり、そのため、戦争中は昭和17年から20年8月終戦時まで、この大沢港の基地を含め、船舶や民家なども10回以上の爆撃や銃撃を受け被災しています。
(「下閉伊郡山田町内戦時罹災調査書」平成9年 調査者・川端弘行)
 戦後はすぐに、座礁していた海軍掃海艇を引き上げて捕鯨船に改造、飛行艇格納庫は工場、スロープはそのまま鯨を引き上げるために使って、大型鯨を対象にした捕鯨業がいちはやく開始されたとのことです。
 
 
(左)  クジラの陸揚げに使った斜面の石敷き遺構が海中に見えました。
戦前、飛行艇基地で使われていたスロープをクジラの引き揚げ用に使ったそうです。


 大沢では、続いて「浜川目沢田Ⅰ遺跡」と、「浜川目沢田Ⅱ遺跡」の位置を確認に行きました。
 浜川目沢田Ⅰ遺跡は縄文時代の遺跡、山田湾が一望できる標高2~7mの低い場所にあり、2014年に住宅の高台移転用地になる際に、南側調査区では縄文晩期、北側調査区では縄文中期の集落跡とたくさんの土器や石器が見つかりました。
 浜川目沢田Ⅱ遺跡は、2016年、浜川目集落に通じる「県道41号」の建設に伴って調査され、道の両側の高台から、平安時代前半の工房や縄文時代中期の住居跡などの遺構が見つかっています。

左の新築住宅の並ぶ微高地が浜川目沢田Ⅰ遺跡。
右奥の県道の両側高台(茶色の斜面が見えるところ)が浜川目沢田Ⅱ遺跡の場所です。

 

 北浜地区の皆様との交流会の前に、北浜老人クラブ事務局長の東海林和彦さまのご案内で、地区の皆さんで建立された「東日本大震災慰霊と感謝之碑」にお参りしました。
 
 
 かさ上げ宅地造成が終わった空き地にはミソハギやフジバカマが咲いていました。

 今年も、北浜老人クラブの皆様との交流として、月例会に参加させていただきました。

 皆様と一緒に健康体操をしてから、心づくしのお昼ご飯をいただき、その後、教養講座「山田の歴史と文化〜故きを温ねて新しきを知る」が開かれました。
 講師はまるごとスクールの斉藤瑞穂さん。
 食生活と弥生文化について、さらに山田町で見つかった弥生土器のかけらを紹介、東北の弥生時代は何を食べていたのか謎であるなどについてお話しでした。

 その後、北浜でのかつての食生活や米づくり、雑穀などについて、北浜の皆様に語っていただきました。
 震災前の北浜地区は一面田んぼで、米づくり専業の家のほか、半農半漁も多かったそうです。
 田んぼに欠かせないのは湧水で、「沢田」の名の通り遺跡のところは今も水がかれない沢があり、原始時代から良い場所を選んで生活していたことがわかります。
 山ノ神の年越しなどの祭祀や、田植え餅のことなど貴重なお話しもお聞きでき、また漁師のとって山の植樹は大事で、「森は海の恋人」とのクラブ事務局の東海林和彦さんの言葉が印象に残りました。
 
東海林和彦さんほか、北浜老人クラブの皆さまに今年もお世話になりました。
 
(左)「心と体と脳の健康体操教室」をご一緒に体験させてもらいました。   (右)これから昼食をご一緒に。
     
(左)会長の千代川定子さまのご挨拶。後は準備してくださった事務局長の東海林和彦さま
(右)北浜老人クラブから、採りたてのワカメをおみやげにいただきました

教養講座「山田の歴史と文化〜故きを温ねて新しきを知る」が開かれました。講師斉藤瑞穂さん。
 
テーマは、食生活と弥生時代、そして東北、山田町の弥生土器について。
Ⅲ 第2日目 9月7日(土)PM

 北浜老人クラブに皆様にお別れして、山田北小学校裏の沢奥、斜面にひろがる房の沢古墳群の位置と、間木戸遺跡の場所を確認しにいきました。
 縄文遺跡や蝦夷塚や製鉄遺跡が国道工事で明らかになった両遺跡とも、沢奥で、現在は三陸縦貫道の築堤で行き止まりになりますが、そばには不思議な磐座や、「山神」などが祀られています。

 房の沢古墳群は、平成8年度の調査で丘陵の下に広がる沖積地で蕨手刀が発見されたことをきっかけに丘陵部分の調査が行われ、岩手県内でも屈指の規模の良好な古墳群が発見されました。。

 
(左)房の沢古墳群の下にある説明板を見ています。草やツタのおおわれていました。
(右)房の沢遺跡の下、毘沙門岳への登山道入口の磐座?(実体は不明)

 続いて、間木戸Ⅱ遺跡・間木戸Ⅴ遺跡の場所を探しにいきました。ここも三陸縦貫道路建設に関連して 平成25年度に発掘調査され、今は同道路の築堤の下で、沢筋の道も行き止まりでした。
 間木戸Ⅱ遺跡では、縄文時代前期から中期の密集した竪穴建物跡と、7世紀末から8世紀初頭の竪穴建物跡が見つかりました。
 また間木戸Ⅴ遺跡では、岩手県最古級の8世紀中葉の製鉄関連遺構が見つかり、県沿岸部の製鉄史に関連する調査成果が得られています。
 
(左)間木戸Ⅱ遺跡・間木戸Ⅴ遺跡の場所を地図で照合しています。
(右)沢奥には「山神・水神・稲荷社」の石碑と、扉を赤く塗った石の祠が祀られていました。

 北浜地区から山田湾に沿って45号線を南下し、船越を経て大浦へ。
 大浦への山田湾の浦の浜と船越湾の間の低地の道路は堤防を兼ねて嵩上げされ、景色は一変していました。大浦港も完成して、現在、高い防潮壁の工事中です。

 大浦の漁村センターには、山田史談会前会長の川端弘行先生ほか、大浦のお住まいのご婦人方が集まってくださり、今回は、行事食を中心に、かつての食生活についてお尋ねし、貴重な体験談をお話いただきました。

 大浦では、魚は縁故の漁師さんからもらうもの。 野菜や稗や麦、粟の畑作は各家で行っていたが、コメ作りはやっていなく、お米は「コメヤ」(屋号)さんから買って、麦などをつく「ツキヤ」さんで精米ししてもらう。
 戦直後の配給制度の時は、粟稗を入れた「サンコクメシ」や海藻を細かくしていれた「メノコメシ」を食べた。大根飯は、白くて稗飯より美味しかったとのこと。
 冬はイルカをいれた汁を食べ、イルカのモツは刺身で美味だったとのこと。。
 行事食では、12月12日の「山の神様の年越し」では生うるち米の粉に炊いた豆を入れた「スットギ」などのご馳走、1月16日「ホトケ拝み」では「精進」なので、魚を入れない野菜の煮物を作るなど。また麦の太い麺にアズキと砂糖を入れた「ハットウ」などの郷土食を教えていただきました。

 大浦最後の仮設住宅は取り壊し中で、皆さん、ご新居でお暮らしとのこと。
 傍らでは、昭和の大津波の教訓碑が、今も大浦の皆さまを見守っていました。
 
(左)車窓からの山田湾。左手にオランダ島(大島)小島、右手には船越半島が見える。
(右)船越半島へ渡る嵩上げされた道路を行く。右手前に、鯨と海の科学館。公園化が進む右手の低地は、震災後ガレキ処理場だった。
 
大浦漁港。背後に高い防潮壁を建設中
 
川端先生&大浦の皆さまとの交流会。 手作りのサンマのつくね汁とサラダゼリーをいただきました。
  
仮設住宅は撤去工事中。 その傍らに立つ昭和の大津波の教訓記念碑

大浦の皆さまと記念撮影

 大浦漁村センターでの交流会後、大浦港へ。
 毎年、お世話なっている漁師の野田さんと再会、今日は「昆布の口開け」(外海でのコンブ漁の解禁日)で、ちょうど今日捕って干した昆布を小屋に入れる作業が終わった所でした。
 野田さんの新しい舟を見せていただくと、小型の漁船でも、最近はGPS位置情報にソナー魚群探知がついたシステムが装備されています。
 夕暮れの山田湾がきれいでした。
 


 大浦港から大浦の集落内にある「ごしゅぜんさま」(即身成仏した智芳秀全を祀った「秀全堂」)と向かい側の霞露ヶ嶽神社を参拝しました。
 大浦の歴史と信仰を物語るお堂と神社です。

 神社本殿の懸魚の部分にイルカが彫られているとのことで、目を凝らして探し、 彫刻を保護するための半透明の樹脂板の奥に、波の中のイルカを見つけました。

 神社には、石造物も興味深いものがいろいろあり、中でも覆い屋の中の「日和石」は、秀全禅師が大乗妙典を血書した「一石一字」の石を納めた上にあり、碑面の乾湿をもって晴雨を卜するとのこと。碑面の字は、秀全禅師の筆だそうです。

秀全堂

 霞露ヶ嶽神社本殿に参拝
 
霞露ヶ嶽神社本殿の懸魚には、 確かにイルカがいました。
 
(左)智芳秀全禅師が大乗経を血書した一石一字を納めた「お経塚」にある「大乗経血書一石一字三礼供養」碑の「日和石」
(右)「山神塔」などの石塔。東北の石塔は、ほとんど自然石です。石そのものに霊威があると信じられているからでしょうか。

 夕方、日が暮れるころ、船越半島の山田湾に面した大浦から、小谷鳥漁港へ向かいました。
 小谷鳥海岸
は外海に面しているため、この入江の港と水田に面した小さなこの集落は、津波の直撃をを受けて、公民館に避難していた人も公民館の建物ごと、海にさらわれ、多数の犠牲者を出しました。
 その公民館跡の背後の山の中腹には、「祈りの慰霊碑」が建てられています。
 入江は、巨大な堤防で仕切られ、水田も回復しましたが、ただでさえ少ない人口は大幅に減り、とてもさみしい印象でした。

夕暮れの小谷鳥漁港

奥の防波堤は修復された以前のもの。震災後設置された手前の巨大な堤防ばかり目につきますが、風光明媚な入江です。
   
公民館跡裏の山腹には小谷鳥地区の震災犠牲者を慰霊する碑が建てられています。
 小谷鳥からホテルに戻り、山田の街中にある「ささき」で、懇親会を持ちました。
 「ホヤの刺身」のほか、三陸の魚介と、岩手牛のステーキなどに、舌鼓を打ちました。
 
続きは⇒「第3日目」へ



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