2019.9.15

111-3
  2019年第7回「山田湾まるごとスクール」
第3日目
    -震災8年目の復興の姿と、三陸の「食」の歴史をたどる旅-


 Ⅳ 第3日目 9月7日(日)AM

 三日目も快晴! 朝、ホテルを出て、まずは近くの国道45号線沿いの織笠川南岸の山田湾ビューポイントPへ。
 鏡のような山田湾と船越半島、寛永20年にオランダ船が補給を求めて来湾し、停泊させられた大島(オランダ島)、小島が一望できました。
 
 振り返ると駐車場の裏山を、今年3月に開通した三陸鉄道リアス線のかわいらしい車両が徐行しながら、通り過ぎていきました。

 
(左)国道45号線沿いの駐車場花壇   (右)三陸鉄道リアス線の気動車が景色に良いところなので、徐行、停車してくれています。


 続いて、船越半島の荒神海岸へ。
 夏は町民でにぎわう海水浴場ですが、夏休みも終わって、静かな海岸でした。
 ここでの「山田湾まるごとスクール」の体験は、砂鉄の採取。 山田湾周辺の地質は花崗岩で、その風化した真砂土は白い石英の砂ですが、同時に花崗岩に含まれていた磁鉄鉱が砂鉄となった黒く重い砂が大量に層をなして、海岸に打ち上げられています。
 砂鉄は、山田の古代製鉄を支えた重要な資源で、今回は磁石に吸い付かせて、その存在を学びました。
 山田のさまざまな色の土を使って抽象画描く井山画伯に贈るため、その砂鉄層を皆で掘りあげて、おみやげにしました。

荒神海岸のシンボルは弁天島

潮が引いたときは、岩礁伝いに右の弁天島へ渡れます
 
(左)黒い砂鉄が波に洗われて、きれいな紋様)を見せていました。 (右)磁石に吸い付く砂鉄

振り返って、山田湾方面。遠く船越低地には大きな堤防が出現。
堤防の左奥に、海と鯨の科学館のドウム上の屋根がかろうじて見えます

 荒神海岸で砂鉄採取の体験をしてから、荒神社に参拝しました。
 弁天島を望む絶景を背景に、鳥居をくぐると、静かな長い参道の奥に、本殿が鎮まっています。

 祭神は、アイヌの漁の神「リクコタン」で、後に綿津見神を合祀。今も漁民の信仰を集めています。
 もう一つの祭神「閉伊頼基」は、鎮西八郎為朝の八男で、建久2年(1191)に閉伊押領使として当地方に下向。死後、宮古の華厳院に葬られ、洪水で御遺骸が流されて船越半島南端で発見。地元小谷鳥で祀り、宝治2年(1248)神託により、今の荒神社霊廟に祀り「田の浜大明神」と称したそうです。

 鳥居の右手には、昭和3年(1928)に閉伊頼基没後六百年「記念碑」、そして、3.11の津波の「鎮魂之碑」が並んで立っています。
 津波は、階段上の籠拝殿までさらいましたが、本殿は無事でした。平成27年に、新しい籠拝殿長床が支援で再建されています。
  帰り道、荒神海岸入口の道には、津波で流された灯篭の礎石が目に留まりました。
 きれいな景勝地、そして信仰の奥地ですが、3.11の大津波の凄さを静かに物語っていました。

荒神社の階段を登り、振り返ると船越湾と船越半島が一望。
       
(左)照葉樹林も見られる社叢林の奥に、荒神社本殿が鎮まっています。
 (右)昭和63年奉納の「宝剣」の下部 「御祖大神」としてアイヌの神「理久古円段」も祀られています。
 
(左)平成27年に再建された新しい籠拝殿長床   (右)末社はやはり「山神」さま!
 

(左)昭和3年(1928)に閉伊頼基没後六百年「記念碑」と平成23年3月11日東日本大震災の「鎮魂之碑」
(右)荒神海岸の神社参道に残る鳥居跡


 今年も「鯨と海の科学館」を訪問。
 「山田湾まるごとスクール」第一回目、震災翌年2012年の夏、まだがれきの撤去最中の科学館をお訪ねして以来、毎年訪問し、徐々に復興、再開館する過程と、湊館長ほか職員の皆さまやボランティアさんのご苦労をつぶさに学んできました。

 今回は、3Dシアターで「生命体としての海」の立体映像を鑑賞した後、、館長のご案内で、個人的にも興味のあった「マッコウクジラ」と何故いうのか、戦前と戦後の捕鯨の歴史、なぜマッコウクジラは深海に潜れるのかなど、お聞きしながら、きれいに再整備された館内を見て回りました。
 
(右)ドームの海に潜水するマッコウクジラ=独特の形をした頭部には、「脳油タンク」があり、海水で脳油を冷やして固形にし、
その比重をあげて3000m下まで潜水し、浮上するときは、血流で脳油の温度を上げて比重を小さくするそうです。
口の周りには、ダイオウイカと闘った時の無数の円形の吸盤跡、メスを奪いあう闘いでの直線の傷跡が見られます。
 
(左)マッコウクジラ(奥)とミンククジラ(手前)の骨格標本   (右)下の階から見上げるマッコウクジラの腹側

 
湊館長から、「鯨と海の科学館被災から復旧、復興まで=」と題して、スライドを使ってレクチャーいただきました。
 
 
(右)ダイオウイカと闘うマッコウクジラの縮小模型。 ダイオウイカは手づくりの模型だそうです。
 
(左)永い間私の謎になっていた「マッコウクジラ」の意味を物語る「龍涎香」の実物展示。
抹香の中でも「龍涎香」は最上の香で、超貴重品です。
津波による館内瓦礫の中から、再発見されました。
(右)「世界最大!?のクジラのシンボル」がご神体。マッコウクジラは一夫多妻とのこと。

「山田湾まるごとスクール」発足のきっかけになった「文化財レスキュー」で救済された
東邦大学吉崎教授蒐集の「海藻押し葉標
本」

最後に、湊館長と恒例の記念撮影

Ⅴ 第3日目 9月7日(日)PM

 「鯨と海の科学館」にお別れして、「道の駅やまだ」で昼食、おみやげを買って、近くの三陸鉄道リアス線の「岩手船越駅」へ。
 「今年3月に開通したばかりの三陸鉄道リアス線に乗ってみたい」という要望に事務局が応えてくださり、「鵜住居(うのすまい)駅」まで希望者が体験乗車できるよう取り計らってくださり、私も乗ってみました。


 岩手船越駅から鵜住居駅まで風光明媚な浪板海岸や、津波被害が甚大だった大槌町など、車窓から見ながらの有意義な旅でした。
 
小さな岩手船越駅。もちろん無人駅です。船越駅は「本州最東端の駅」なんだ!
 
車を鵜住居駅まで回送してくださるため、リアス線に乗らない安井さん・五十嵐さんが、下りホームから見送ってくださいました。
 
(左)岩手船越駅から「陸中山田駅」方向を望む。左に鯨と海の科学館のドームが見えます。
(右)二両編成の気動車が上りホームに入ってきました。
 
(左)岩手船越駅を出て、リアス式海岸のアップダウン「四十八坂」を抜けていきます。
「48坂」の手製の看板、左手に遠く船越湾の大島が見えました。
(右)景勝地の浪板海岸を展望する地点では、徐行・停車して進みます。

吉里吉里の入江
 
  (左)津波被害が甚大だった大槌町では、大槌川河口に巨大な水門が建設中です。
(右)大槌駅の駅舎。
リアス線の山側は、町役場や復興住宅が建てられて新しい街の姿を現しつつありますが、
海側は、将来公園化するようで、広漠とした風景が広がっていました。
 
(左)小槌川を渡り、(右)大槌小さなトンネルを抜けると、釜石市鵜住居です。
 
(左)鵜住居駅で下車。 (右)ラグビーW杯戦を迎える鵜住居駅。山側に新しい街ができつつあります。
 
(左)「うのすまい」=「やなのある川」を意味するアイヌ語という説もあるそうです。
(右)釜石方向へ進むリアス線の気動車車両                     
 釜石市では、防災センターへ避難した者が多数犠牲になった一方、鵜住居中学と釜石東小学校の生徒児童が、「てんでんこ」防災教育の成果で、いち早く高台へ避難し、全員が助かった「釜石の奇跡」の町、そして今は、鵜住居復興スタジアムが完成して、この秋のワールドカップ戦の試合会場になるラグビーの町です。



この鵜住居駅で降りて、車で遠野を経て、新花巻駅に到着。
ここで、「山田湾まるごとスクール」の解散式。 事務局の五十嵐リーダーに感謝して、お別れしました。


3日間の「2019山田湾まるごとスクール」のルポはこれで終わりです。
最後まで、見て、読んでくださって、ありがとうございました。



inserted by FC2 system