2018.9.7

102-3
  2018年第6回「山田湾まるごとスクール」
第2日目-2
    -震災7年目改めて学ぶ三陸の海と街 そして歴史-

Ⅳ 第2日目 9月2日(日)午後

1. 川端先生ほか大浦の元仮設住宅にお住まいだった方々との交流会

 北浜から湾を左回りに半周して、大浦へ向かいました。
 川端先生ほか大浦の皆様とは、津波被災直後から毎回おつきあいいただいていますが、前にお伺いしていた大浦仮設住宅は閉鎖、それぞれ自宅を再建されたり引っ越しされたので、今回は漁協の集会所をお借りして交流会を持ちました。

 前回、被災後どこに家を再建されたかの調査に協力いただきましたのでその報告と、その後のお暮らしなど、また山田の漁業についてなどお聞きしました。
 手作りのお菓子や周利貝・赤皿貝のおつまみ、海藻のお料理などをご用意くださり、感激でした。
  
くるみの蒸しケーキ。紫蘇とヨーグルトのゼリー。
オリジナルのお菓子に感激!


昨年のまるごとスクールの記録集から。
大浦の被災したお宅の再建場所は縄文遺跡のある高台が多い。

大浦地区の復興計画地図をもとにこの地域の現状を学びました。
 川端先生からは津波の被災した石造文化財や縄文土器などの貴重な写真を見せていただき、改めて津波被害の大きさを実感しました。
 
幻の海蔵寺板碑   正和二二年」銘九州年号の正和4年(1315)。
船越の海蔵寺は、半島の括れた微高地にあり、2011年の津波で壊滅的な被害を受けました。
この板碑は昭和8年の大津波で行方不明になり、その後再発見されましたが、2011年の津波で再度失われてしまいました。
残された川端先生のこの写真と千葉和弘氏が採択された拓本が、かろうじて山田町船越の中世史を伝えています。

船越小学校とともに流されて今はない縄文土器
(逆さまに設置されていた)
大木式8bの逸品とのこと。

織原の絵付き道標
槌と舟の絵が親切ですね。。
2011年の津波で流されたけれど、見つかって、
山田町教育委員会が保管しているそうです
 
「御夢生小田之御所海上思」銘の宝篋印塔  文化八年の建立です。この宝篋印塔は、現在も残っているようです。

⇒リンク 山田町田之浜の「小田の御所」について

2. 船越半島外海の漉磯(すくいそ)海岸を探訪
 大浦の皆さまとお別れして、野田さんの車に先導をお願いし、川端先生にも同乗していただいて、霞露ヶ岳のそびえる船越半島の向う側、山田湾の外海の漉磯海岸へ行きました。
 太平洋岸の漉磯海岸は、「秘境」というべき森林奥の「ポケットビーチ」で、住戸もなく人的被害はありませんでしたが、津波で入江の海岸段丘上にあった駐車場が破壊されて道が行き止まりになり、地震後しばらくは近寄ることもできなかった浜です。

 この入江の海岸段丘上の2011年の津波で破壊された駐車場下から 塩窯の遺構と、製塩作業用のトロッコレールが姿を現し、川端弘行先生と小岩清水先生が調査されたそうです。
 天明9年の古文書(「南部藩家老席日記」)にも記録がある江戸~明治時代の製塩用の石灰製塩窯で、明治29年の津波で窯場は破壊されましたが、窯は津波堆積層に埋もれたまま「保存」されて、2011年3.11の大津波で一時姿を見せた遺貴重な構でした。 

外海に面した漉磯海岸 
塩窯の遺構が、潮だまりがあるこの手前の駐車場の下から、
2011年の津波で姿を現したそうです。

左手奥には 船も人も容易に近寄れない赤平金剛の大絶壁が続く。
霞露ヶ岳中腹が一気に落ち込んできた大絶壁で、高さ300mの赤肌が展開する迫力は圧巻。
日本最大の海食崖です。


2日の夕方は凪いでいましたが、昆布が打ち上げられて、
波が高く荒い外海の姿を実感できました。

3. 「秘境」漉磯の一軒家近くにて
 漉磯海岸からの帰路、霞露ヶ岳登山道入口近くに一軒家が残っています。
 漉磯の集落は、数戸の家がありましたが、今はシイタケ栽培を営む草分けのこの本家のみです。
 船越半島山間部のこの道は、外海と山田湾内を山越えする馬も通れる街道がありました。
 2013年お訪ねした漉磯のこの本家は、南部藩から、鷹狩の御用を勤める由緒ある旧家とのこと。
 今回は、夕暮れせまるなか、お屋敷の入口の「山の神」の祠にお参りするだけで、小谷鳥海岸へ向かいました。

  


4. 夕暮れの小谷鳥海岸を散策

 二日目の最後に訪ねたのは、小谷鳥漁港。
 船越湾の外海に面していて、津波をもろに受けて亡くなった方も多かった集落です。
 太く大きな堤防の工事が終わっていましたが、住居は高台などに移転して、人気のない地域になっています。
 避難していた住民の方々が建物ごと犠牲になった地区集会所、その裏山の慰霊碑には、きれいな花が手向けられていました。

 
なお、この漁港の旧堤防下付近からも、2011年の津波で塩窯が見つかり、、川端先生によって、伝承にあった江戸~明治期の製塩遺構であることが判明、調査がなされましたが、その後、波に洗われて無くなり、今はその跡に巨大堤防が築かれています。

夕暮れの小谷鳥漁港

このガードレールの上まで津波が襲ったそうです。

海と里を遮断する巨大な堤防が完成していました。

小谷鳥の集会所跡
この微高地の集会所に避難していた住民は、建物ごと津波に流されてしまいました。
田んぼのそばにあった里の集落は、高台移転などで今はありません。
 
集会所の裏山を上がった所に、小谷鳥でなくなった方々への慰霊碑が建てられています。
続きは⇒第3日目へ





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