2016.9.9
By さわらびY(ゆみ)
84 2016年第4回「山田湾まるごとスクール」 =被災5年目の山田町への旅
2011年3.11東日本大震災から5年半。岩手県三陸海岸の被災地である山田町に学ぶ「山田湾まるごとスクール」も、今年2016年で第4回目を迎えました。
今年は、2016年9月3日から5日の3日間、馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラムと新潟大学の呼びかけに、葛飾区郷土と天文の博物館の葛飾考古学クラブの会員5名、うち4名が初めての参加で、総勢14名で行われました。
ちょうど台風10号が8月30日から31日にかけて岩手県に甚大な被害をもたらした直後で、釜石からレンタカーで直接山田町へ行く予定が、JR釜石線が9月2日朝の情報で遠野〜釜石間不通とのこと、急遽、遠野駅からのレンタカーを手配し、(3日の朝には釜石線全線開通したようですが・・・)、峠越えルートも軒並み不通な中、遠野から唯一通れる283号線仙人峠道路を使って釜石へ出ての山田町入りとなりました。
釜石から大槌町を経て山田町へ45号線海岸ルートは、大規模な防潮堤や高台移転地の造成、そして市街地の嵩上げ工事の真っ最中、風光明媚なリアス海岸が傷だらけの姿で迫ってくる光景が車窓に続きました。
T 第1日目
9月3日(土)午後3時半ごろ、山田町についてすぐ、町の埋蔵文化財整理室へ。
準備してくださった教育委員会の方々と、山田史談会の川端弘行会長と会員皆さまと一緒に、昨年洗浄作業をした「川端コレクション」の土器片を仕分ける作業を行いました。
「川端コレクション」は、川端氏が山田町大浦周辺で教え子と集めた土器や石器で、5年前の大津波で流され、奇跡的に回収された資料です。
土器の型式分類が目的でしたが、交通事情で到着が遅れ全く時間がなかったので、今回は昨年洗った川端コレクションを、口縁部と底部、胴部に分類して、口縁部と底部の数を数えることにししました。
土器コンテナ10箱分の多量の土器片を、今回参加された葛飾考古学クラブのボランティアさんが主力となって、手際よくてきぱきと仕分けして数量を計算、なんと1時間ちょっとで作業を終わることができました。
山田町の文化財整理室にて。川端コレクションの分類作業の主力は、葛飾考古学クラブのボランティアさん!
縄文中期〜後晩期の土器が主ですが、中には土偶の手足や注口土器の注ぎ口や弥生土器(右端)も。
整理室の前で、川端先生・山田史談会・山田町教育委員会職員と記念撮影
3日の夜は、被災地仮設の居酒屋「笑多」で、山田湾まるごとスクールメンバーと山田史談会の交流会。
新鮮な海の幸と史談会から差入れの「鬼剣舞」、そしていつものようににぎやかなお話で盛り上がりました。
U第2日目
9月4日(日)、山田湾まるごとスクールの2日目。
午前中、北浜老人クラブの皆さまとの交流会の前に、まずは、被災した北浜地区にぽつんと残された鎮守の大杉神社や、北浜地区の立地と被災状況を見て回りました。
スチール製の鳥居とコンクリート製の社殿だけ残った大杉神社。津波のがれきの中からからご神体だけはかろうじて救出されました。
社殿の中では、敬老の日に行われるの神幸祭の準備がされていました。
漁民の信仰を集める大杉神社(あんばさま)の総本社は、茨城県阿波にある大杉神社。
関東・東北には、厄除けや疱瘡除けのご利益のある大杉神社が約670社あるそうです。
続いて、山田北小学校へ。 体育館の後ろの高台に出来た避難用階段を登り、山田湾と北浜地区を展望しました。
その高台の東斜面は、蕨手刀などが出土した房の沢古墳群の遺跡です。
看板によれば、山田地方を治めていた蝦夷の首長クラスにより、1200年前古墳時代末期から奈良時代にかけて築かれた古墳群とのことです。
続いて、北浜老人クラブの活動をされている東海林和彦様のお宅を訪問し、クラブのメンバーの方々と、3.11大津波のご経験などをお伺いしました。
わたしたちがこの北浜老人クラブの活動を知ったのは、さいたま市のコムナーレフェスティバルの「被災地支援展示&サロン」に参加した際で、さいたま市内の災害支援ボランティア「宮北会」の発表の中に、山田町の東海林さんと北浜老人クラブとの交流を報告されていたことからでした。
北浜老人クラブは、東日本大震災の証言と記録集『浜よふたたび 私たちは忘れない』を刊行され、その第1部は、亡くなった仲間の方への追悼文と、助かった方々の貴重な証言、第2部では、震災直後から支援を行った3つのボランティア団体の記録と感謝、そして第3部が津波余話・ヒストリアで構成された驚くべき内容でした。
震災後にきれいに改築された東海林さんのお宅は、一階が天井近くまで浸水し、ヘドロやガレキが流入。その浸水した高さの跡が天袋の戸に、今も残っています。
東海林様ご夫妻のほか、北浜老人クラブ会長の千代川様、一條様、上林様から、津波直後の凄まじい体験やその後の生活についての生々しいお話をお聴きし、お互いの自己紹介や感想などですっかり予定時間を過ぎてしまいました。
北浜老人クラブの役員を担っている方々から3.11大地震の体験談をお聴きしました。
津波の浸水跡が残る天袋
9月4日午後は、「道の駅山田」で昼食後、山田湾の向こう側の船越半島の小谷鳥と大浦地区へ。
小谷鳥漁港とその上の集落の小谷鳥地区は、少し高い場所にある集会所に避難していた方々が集会所ごと津波にのまれ、その慰霊碑が背後の山の中腹に建てられています。
小谷鳥漁港では、大浦の漁師の野田さんから、小谷鳥は外洋に面しているため津波の威力も大きく、また先日の台風で再度壊れた修復中の防波堤などのお話を伺いました。
また小谷鳥の海岸では、製塩釜も見つかっていますが、風光明媚なこの浜も、防潮堤や漁港施設の復興工事の最中でした。
高台の松林も、震災時、田の浜集落の火事からの飛び火で所々枯れています。
いつかまた小谷鳥のその美しい景観がよみがえる日が来ることを祈り、大浦へと向かいました。
復旧工事中の小谷鳥漁港を、漁師の野田さんの案内で見て回りました
先日の台風10号に倒れた再建中の防潮堤(右) 高台の松林も火事の飛び火で所々枯れてしまってました。
次に小谷鳥漁港を後にして、毎年お伺いしている大浦の仮設住宅の談話室へ。
川端先生、野田さんご夫妻ほか、去年同様、多くの方々が集まってくださいました。
川端先生は、大浦の郷土史関係の文献、「秀全禅師」、士由撰句集「?鮓集」、「船越八景」、「山田八景」などいろいろと用意され、貴重なお話をしてくださいました。
また、新潟大学の齋藤瑞穂さんからの聞き取り調査で、大浦の方々に明治29年(1896)の大津波の際、当時の調査表に記載されている各家の場所が、地図の場所がどこであったかをお聞きしました。
明治29年といえば120年前、約4世代も前のことですが、皆さま、曽祖父やその先代、実家や本家分家のつながりなどしっかり覚えておられ、その記憶が、実態がよくわかっていない明治三陸大津波の具体的な被害状況の解明に一役立ちそうとのことでした
その他、仮設住宅の奥様方が作ってくださったおはぎや、今は注文でしか作らない大浦の高齢の和菓子職人が作った飾り菓子をいただき、感謝のひとときでした。
大浦の仮設住宅の談話室にて 川端先生が資料を用意されて説明くださいました。
明治三陸大津波の際の調査表にある各家の位置を聞き取り調査しました。
大浦の高齢の和菓子職人が作ったきれいな菓子(左)と、仮設にお住いのご婦人が手作りのおはぎ(とてもおいしかったです)。
夕陽を浴びて、大浦の仮設住宅前で記念撮影
大浦の仮設住宅を後に、夕映えに中、野田さんには大浦小学校前の畠中遺跡にできた避難用道路や高台移転予定地を、また川端先生には即身成仏した智芳秀全を祀った「秀全堂」をご案内いただきました。
大浦の高台から夕暮れの山田湾はとてもきれいでした。
大浦小学校前の畠中遺跡にできた避難用道路
山田湾 (避難用道路と高台の住宅予定地から)
秀全堂 「ごしゅぜんさま」と尊敬される秀全禅師が入定されたところに立つお堂です。
霞露ヶ岳神社から
V 第3日目
9月5日(月)は、山田湾まるごとスクールの三日目最終日。 この日もよく晴れています。
まずは、山田町の被災した中心街の背後の高台にあって3.11の大津波と火災を免れた山田八幡宮に拝観しました。
境内では、鍵を開けにいらした氏子役員の方に、町内狭しと暴れまわるので「暴れ御輿」といわれる祭礼の御輿の事や、この町では津波より火災での被害が大きかった3.11の状況などお聞きすることができました。
次に、八幡宮に隣接した町役場へ。お世話になった教育委員会生涯教育課にご挨拶した後、八幡宮参道の昭和8年津波記念碑を見学しました。
井内石製、高さ2.8m、大きなわかりやすい書体で地震の際の5か条の教訓を刻んだこの記念碑は、昭和8年の三陸大津波の際に朝日新聞社に寄せられた義捐金で建てられた記念碑の一つで、山田町に6か所、総数は200基近くあるといわれています。
明治29年の津波の記念碑も数多くあったそうですが、難解な字と文で、多くは犠牲者の供養目的であったことから忘れられてしまったものが多く、その反省から昭和の津波記念碑は、津波から逃れることを第一に、大きな字で目立つところに立てられたそうです。
八幡宮にお参りしました。
八幡宮拝殿にあった鰤の定置網漁を描いた絵馬
「祝大漁 相模米神鰤漁場 昭和十六年五月 南部漁夫一同 KOWSHI」と記されています。
「相模米神」とは小田原市の米神正八幡神社のことで、ここの神社にも昭和14年の同じ絵馬があるそうです。
昭和8年の津波記念碑の表面の銘文
「 津浪記念
一 大地震の後には津浪が来る
一 地震があったら高い所に集まれ
一 津浪に追はれたら何所でも此所位高い所へのぼれ
一 遠くへ逃げては津浪に追付かる
近くの高い所を用意して置け
一 縣指定の住宅適地より低い所へ 家を建てるな 」
山田湾まるごとスクール三日目(9/5)の最後の見学は、「鯨と海の科学館」。
2012年の第1回から今回の第4回まで毎回訪ね、その都度、被災した館内と復興の過程を丁寧にご説明案内していただいてきました。
今回は、まず本館前のプレハブの「体験学習棟」で湊敏館長さんから「2011.3.11記憶」と題して、東日本大震災による山田町と鯨と海の科学館の被災状況、そして科学館の復旧について、スライドでお話いただきました。
本館は、来年春の再開予定でその準備の傍ら、8月22日〜29日には資料の保存のための燻蒸作業が行われ、教育委員会所蔵の民具なども一緒に燻蒸し、その間は立ち入り禁止だったそうです。
また館内では、弘前大学の片岡先生、筑波大学の松井先生の率いる学生さんの博物館学の資料保存実習が行われていて、津波のヘドロから救出した資料を保存修復する作業していました。
来年の第5回山田湾まるごとスクールは、再オープン後。その時は「入場料を払ってまた来ます」とお約束し、まるごとスクール発足の原点である鯨と海の科学館を後にしました。
再開を待つ鯨と海の科学館 建造中の防潮堤道路
この道路が完成すると、鯨と海の科学館も再開されるそうですが、海の景色は全く見えなくなりました。
「体験学習棟」で湊敏館長さんから3.11の津波の被害と復旧の足取りについてのお話がありました
鯨の骨格標本展示室
バックヤードの収蔵室 (鯨の肋骨などを収納する作業中でした) 天文航法に使った六分儀
(天文航法はGPSが当たり前になった今でも、機器が使えない事態のために習得が必要とのこと)
第4山田湾まるごとスクールの最後の記念写真
お世話になった湊敏館長と山田町教委の川向さん、実習指導中の筑波大の松井先生も一緒に撮りました。)
帰路は、道の駅山田で、それぞれたくさんのお土産を購入し、唯一開通している仙人峠道路を通って遠野へ。さらにここから釜石線で新花巻駅へ出て、駅前で解散となりしました。
岩手県の台風の被害が気になりましたが、山田町ではよいお天気に恵まれ、震災で大変な経験をされた山田町の皆さまから生き抜くことの大事さ、地域のつながり、支援への感謝など、感動的なお話とたくさんのパワーをいただいた有意義な3日間でした。
来年もまた、新しいメンバーをお誘いして山田町を訪ねたいと思います。